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304我をしていたことであろう。電気,ガス,水道が遮断され,携帯電話はまったく使用できず,さらに2日後にはガソリン不足が,続いて食料品や日用品の不足が生じた。 震災翌日,福島第1原子力発電所の事故が報道され市民の緊張は一気に高まった。外国人は早々に国外,県外へ避難し始め,診療所には長期間の処方を求める患児が徐々に増え始めた。ニュースでは『落ちつてください』との一点張りの指示のみであったが,徐々に拡大する避難指令地域にいつ自分たちが含まれるのか,避難する外国人を横目に筆者らも動揺を隠せなかった。そして,実際に避難指示が出された原発周辺地域の住人が一気に当市へ移動を始め,どこで誰を受け入れるのか大混乱を極めた。市内の一部の病院は建物の損壊によって閉鎖され,病院間で入院患者の大移動が行われた。さらに避難地域の患者を受け入れて欲しいとのことで,医療機関もパニック状態であった1)。 震災から4日目の3月15日,筆者は郡山駅前まで歩いた。街には人影もなく,車の往来も閑散とし,コンビニエンスストアをはじめすべての店のシャッターが閉まっていた。まるでゴーストタウンのようになってしまったわが街を目の当たりにし,今まで感じたことのない不気味で恐ろしい印象を受けた。自分の生活そのものが成り立たないこの状況は,最も弱い立場の子どもがいるべき環境ではないと直感した。 地震によって当院は激しく損傷し,入院病床を封鎖した。翌日から外来診察室の一部を片付け,残っていた薬剤と飲料水,暖房用の燃料で何とか3日後に外来診療を再開した。ガソリン不足のため来院する子どもの数は非常に少ないものの,彼らは一様におびえた表情をし,赤ちゃん返りや母子分離不安などの様子も見られた。なかには重症で入院を要する患児もいたが,混乱中の市中病院では対応できずに患児の家族が自ら東京の病院を探して入院した例もあった。大人も余震の恐怖やガソリン不足,食料品や生活物資の欠乏に加え,放射線被ばくの恐怖にさいなまれ,顔は引きつり能面のようで,言葉のトーンも非常にきつかった。こうした大人の表情や言動は,いずれ何らかの心的ストレスを子どもに及ぼすことは想像に難くなかった。 開設された避難所のいくつかを訪問したが,特に県内最大の避難所となったビックパレット(市内のコンベンションホール)の光景はすさまじいものであった。避難地域の人々は,ホールや通路に人一人がやっと歩ける幅を残して所狭しに川の字に横になっていた。その光景は,プライベートも人間の尊厳をも守られない非常に厳しい環境であった。人々の顔は無表情で,ただ時間が過ぎるのを待っているという印象を受けた。子どもは限られた狭いスペースに押し込められ,ときに歌ったり遊んだり,絵本の読みきかせに耳を傾けていた。このような環境が苦手な発達障害の子どもは,1日のほとんどの時間を狭い車内で過ごしていた。2.郡山市震災後子どもの心のケアプロジェクトの立ち上げ 今回の震災は,甚大な被害をもたらした天災とその後に引き続いた人災との複合災害である。郡山市も過去に例のない放射線汚染地域となった2)。誰も経験したことのない状況下で,果たして小児科医として何をすべきかまったくわからなかった。しかし,黙ってこの状況に甘んじるわけにはいかず,小児科医であり当時郡山医師会長を務めていた父と,ちょうどそのとき来訪下さった児童精神専門家である恩師の渡辺久子医師(元慶應義塾大学医学部小児科講師)とともにプロジェクトの設立を決意した。医師単独では,多くの子どもたちを守ることはできないので,行政とのタイアップが必要と判断した。行政と協議を行い,郡山市,郡山市教育委員会,郡山医師会が協力して,地域の子どもたちを守る活動を始めた。震災からわずか2週間後の3月29日,活動の中心となるコアなメンバーとして,小児科医,看護師,臨床心理士,保健師,保育士,そして教育委員会,行政の多岐にわたる19人が集まり,「郡山市震災後子ど

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