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最 新303車場へ誘導した。これからどうするかを考えあぐねていると,空は突然黒く陰り,スーと冷たい風が吹き流れ,やがて大粒の雪が降ってきた。慌てて暖を取るために子どもや家族を職員の車に避難させた。カーナビゲーションのTVを付けてみると,そこには想像を絶する津波の映像が映し出され,この世の終わりかと愕然とした。1.震災直後の市内の状況と子どもたち 郡山市は福島県のちょうど中心に位置し,震災前は人口約34万人(注:震災後徐々に減少し,2018年1月現在33万4千人余り)を有する県内最大の中核都市である。南北に東北新幹線と東北自動車道が走り,東西との交通の要所であり経済の中心でもある。 郡山市は震度6弱を記録し,筆者の自宅マンションでは食器棚や本棚などのほとんどの物が転倒し,室内は足の踏む場所もない有り様であった。もしそこに誰かいれば,間違いなく怪 未曾有と言われた東日本大震災(以下震災)から早くも7年が経とうとしている。この間にも日本各地では大小の災害が相次ぎ,甚大な被害をもたらした出来事も徐々に風化と忘却が進んでいる。しかし,被災地ではいまだに震災の影響は色濃く残っている。特に災害弱者といわれる子どもが被った影響は多様かつ複雑であり,環境変化によって子どもがどのように変化していくのか継続的に観察する必要がある。3回にわたり福島県郡山市を中心とした福島の現状を報告するが,初回は震災直後の状況と筆者らの取り組みの始動を紹介する。* S. Kikuchi 菊池医院は じ め に 2011年3月11日午後2時46分,未曽有や想定外といった,あらゆる言葉をもっても言い表せない大災害が発生した。地震発生当時,筆者はいつもどおりに自院で子どもの診療にあたっていた。実は2日前からの比較的大きな地震が相次ぎ,今回もその余震かと思った瞬間,建物がきしむ音とともに激しい揺れが襲ってきた。診察中の患児を机の下に潜らせ,ただ呆然と立ちすくんでしまった。鳴り響く非常ベルにハッと我に返ると,院内には白煙が立ちこめていた。ひとまず道路へ出てみると,次から次とやってくる大きな余震に電柱はしなり,あちらこちらから緊急車両のサイレンが聞こえてきた。 有床診療所の院内には,入院中の子どもが6人,点滴中が3人,外来に5,6人,そして,病後児保育中の子どもが4人いた。スタッフも子どもも,その家族もパニック状態に陥っていたが,診療所の損傷が目立っていたため全員を駐産婦人科の実際 Vol.67 No.3 20181 ‌‌「郡山市震災後子どもの心のケアプロジェクト」始動と‌遊び場設置連載3回菊池信太郎*東日本大震災と福島県郡山市の子どもたち

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