41とか思うのが正常な感覚だが、セラピーの場ではしばしばこういう解釈が行われる。これは合っていることも間違っていることもあるわけだが、相手の言っていることに対して、そのまま内容を理解せずに、こちらの感覚の範疇で言っていることを変換して捉えており、ある意味牽強であるともいえる。しかし、前者のめんどくさがることによる牽強と、後者の詩や精神療法における牽強では、話が大きく異なる。後者の牽強は、ある事柄とある事柄を少ない情報から関係があると結びつけてみるという試みにより、新たな発想や展開につながっていくことを意図するのに対し、前者の牽強は、提示されたものをそのまま理解することからただ逃避するために、自己に親和性の高い馴染みの思考に無理矢理当てはめているだけだからである。馴染みの思考に結びつけてしまう、という話は人間関係の齟齬にもつながっていて、相手の言動をみたときに、実際は今その瞬間の文脈に規定された相手の言動なのに、勝手に自分のなかにある馴染みの思考で相手の言動を捉えてしまうことで、本当は全く嫌われていないのにひどく嫌われているのではないかと思ったり、いいところも悪いところもある人なのにものすごくいい理想の人みたいに勝手に思ったりしてしまいがちである。
元のページ ../index.html#25